交通安全の願いを込めて③ 当時の道路状況

「そらいろRoom」の風(ふう)です。

2回にわたって
物部・国鉄バス転落事故に関係する
記事を書きましたが
今回は当時の道路事情の話になります!

書きたい事だらけで
3回で終わらんかった(*´Д`)

関連記事

■香北交通神社

毎年11月7日には
事故現場の慰霊碑と一緒に慰霊祭が行われている。

関連記事② 若干修正・追記あり↓

■物部川・国鉄バス転落事故

昭和25年(1950年)11月7日
バスが物部川に転落。
34名の死者を出した悲しい事故。

今回道路の事を調べた理由

実は今回、話が伸びた理由になりますが
事故があったのは現在の道路なのか?
もしかして旧道があるのか?

・・・と疑問に思ったからです。

当時の新聞を見ると、何か場所が違うような
気がして、詳しく調べていく内に
長くなってしまいました。

当時(戦後)の物部川周辺の道路状況

物部川は暴れ川と呼ばれていた

物部川は昔から氾濫も多く
暴れ川と呼ばれていました。

物部川の水害が起きない様
祈願されて、対に建てられた神社たち↓

■加茂神社

物部川を見守るように建っている。
周りの田んぼや森林の景色が絶景。

■貴船神社

こちらも川を見渡す為か高い場所にある神社。
狛犬の顔が可愛い。

そんな物部川の水害対策の為
昭和21年(1946年)11月には
直轄河川改修工事が行われ

全ての改修工事が終わる昭和46年(1971年)
まで工事が行われていました。

永瀬ダム・吉野ダム・杉田ダムの誕生

大正時代から開発を求める運動があった物部川。
ついに昭和25年(1950年)
バスの事故があった年ですね。
この年には永瀬ダムの着工が始まりました。

そしてその次の年には吉野ダムの着工。
資金の関係で1957年に遅れて杉田ダムの着工。

事故のあった年、ダム周辺の人々は、
地域の発展に大きな期待
していたのではないでしょうか?

※2024年3月に
永瀬ダムの画像も追記しました☆

各ダムの紹介↓

■吉野ダム

少し坂がきついですが
ここから見る物部川は格別・・・!

■永瀬ダム

3つの中で一番規模の大きいダム。

ダムの着工と同時に進む、トンネルの開通や道路整備

ダムの着工と同時に工事のトラックや
作業員の行き来も増えたでしょう。
同時にトンネルや道路の整備も進みました。

例として2つのトンネルを紹介します。

臼杵(うすき)隧道

以前紹介した臼杵隧道です!
旧トンネルは永瀬ダム建設の為に
付替道路として作られました。↓

■臼杵(うすき)隧道

写真を見ると当時の道路状況が
良く分かります。

大瀧隊道(杉田トンネル)

それは杉田ダムを少し東に行った所にありました。
こんな所にトンネルがあったと
分かる人はいるのでしょうか?

これ、たまたま見つけたのですが
ここにトンネルが!?
とびっくりしました。↓

大瀧隊道(通称:杉田トンネル)
1961年の航空写真ではバッチリ
トンネルが残っていましたよ!

このトンネルは杉田ダムの建設に伴って
昭和34年(1959年)には
完成していましたが、幅も狭くて
行き違いができなかったので
トンネルは切り取られ
今のような道路に変わっています。

大瀧隊道から疑問に思った事

昭和34年(1959年)
トンネルができたという事は
それ以前はこの道はトンネルがなく
通れないので何処の道を通っていたのか?
・・・と言う疑問が発生。

杉田ダムの建設に伴って作られたなら
ダム建設が原因で使われなくなった
トンネルができる前に使用していた

道があるはずと、資料を読みあさりました。

旧国道はあった?

ダム建設前の地図もなく
諦めていましたが・・・

ついに「香北町史」にて発見。
ダムは川の水没にともなって
家の転居や建物の移転、

道路や橋の付替、新設工事など
様々な補償問題が起こります
以外に一番大変だったのは
永瀬ダムでなく杉田ダムだったそうです。

そこで国道の付替工事があった
記載してあったので、付け替えた道路が
今の国道195号線の可能性だと思われます。

事故当時はまだ杉田ダムは
着工されていなかったので
当時は道路状況も悪い旧道路の方を
走っていたのではないでしょうか?

ただ旧道がどの位置にあったのかは
色々探したのですが分かっていません。
う~ん、もやもや。

道路は少しずつ改良されていた

当時の事故現場近辺の道路は
戦後、そして永瀬ダムの建設にともなって
大幅に進化していました。

事故があったのが
昭和25年(1950年)
永瀬ダムの着工と同じ年です。

もしあと10年・・・
いや20年ダムの建設が早かったら
新しい国道もできていて
道路の状況ももう少し
良くなっていたし、それに伴って
バスのグレードも早めに上がって
運転状況も良くなっていたのかもしれません。

※事故があったバスは定員33名でしたが
事故が起き
たのをキッカケに

後約1か月後の12月6日
定員50名の大型車2台が
配置されることになりました。

どれももう少し早ければと悔やんでなりません。

それでは、今回は若干話がそれて
当時の交通状況の話になりましたが
次回は、事故後の話を少しだけして
終わろうと思います。

2回のつもりが、調べだすとあれやこれやと
気になってしまい、長々と話していますが
もう少しお付き合いください。

慰霊祭2日後の交通神社。
お花が供えられています。↓

参考資料
■香北史(1968年版)
■高知県土木史 
■高知新聞

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