「そらいろRoom」の風(ふう)です。

前回、香北交通神社をきっかけに知った
物部川・国鉄バス転落事故。
前回の記事↓
今回はその続きで
当時、起こった話を簡単にしていきます。
2回で終わると話しましたが
3回になりそうです(*´Д`)
※追記:4回になりました!
慰霊碑の場所

香北交通神社も近くにある
杉田ダムの前の国道195号線を
物部町方面に進んでいると
物部川沿いに慰霊碑が建っています。

「平家の茶屋さん」を通りすぎ
少し走って、下りにさしかかった場所。
建てる時の土地の問題で
多少ズレはあるかもしれませんが
色んな資料を見た所
事故現場の位置は大体この辺であると思われます。
ただし、当時は旧道があり
旧道で起きた可能性が高い為、
実際はもう少し下方の方で
転落したのかもしれません。

比例日の隣には車を停める路肩があります。
ですが木や竹が多い茂っており
そのまま見逃す事も。
事故当時のできごと。
当時の町はどんな様子だったのか
戦後、この時期は香北町周辺は発展の時期でした。
今回は簡単に話しますが
(次回でまた話します。)
昭和25年(1950年)に永瀬ダムの着工。
続いて吉野ダム・杉田ダムと着工。

付近の住民の方は期待に
胸膨らましていたのではないでしょうか?
事故当日の話
昭和25年(1950年)11月7日
午後6時20分ごろ。国鉄バス大栃線
土佐山田発・在所村行きの最終バスが発車。
※在所村は、現在の猪野々・永瀬・清爪など
17カ所の村一自治区を作り、在所村と名付けた。
村役場は白石にあった。
時間は午後6時50分ごろ
当時の橋川野駅西方約700m
(※資料によっては1㎞との記載もあり)
国道195号線の峠付近の
下り坂にかかったS字カーブで
左前輪が浮き上がって
右のハンドルが上手く切れずに
そのまま物部川へ転落。
国道から下の水辺までは約60mも
あったという。
現場周辺の写真
※後日修正・追記あり
慰霊碑の反対側の道路から撮った写真↓
元々旧道があって、旧道から転落した可能性があるので
どの辺にあったのかが不明ですが
大体この辺りかとは思います。

現場近くは畑があり
近くまでは行けませんでした。
もう少し近くに行けたら、底の方が見えて
何か分かったかもしれません。
最初は現在の国道から転落事故があったと
考えていましたが
次回の③で詳しく述べますが
実際は現在の道路でなく、旧道から
転落したものと考えています。

ダムができるまで、物部川は
川底の石が見えるくらい澄んでいて
水深も浅かったそうです。
橋がなかった時代、船代がない為に
服を脱いで川底を歩いて渡っていた者もいたとの事。
現在、水抜きしている今の状態より
昔はさらに浅かったと思われます。
多くの犠牲者を出す
■死者34名(即死者26名)
■重軽傷29名
※即死者・重軽傷者・軽傷者の数については
資料によって数が違っています。
2日後の11月9日の高知新聞では
この事故がトップ記事となり
当時の様子を生々しく書いていました。
記事の写真では、現場の写真と粉砕したバス。
あと、血痕のついた大量の革靴・下駄・傘などの
写真が、当時の悲惨さを写し出しています。
こちらの新聞を実際に読んでみたのですが
ストレートに書いている為に
当時の悲惨さがリアルに感じ取れました。
ただ表現が今と比べてかなり表現が激しいので
こちらでの記載は控えます・・・
(今の時代だったらここまで書けないだろうな~
これが時代の流れか~)
被害者の多くは前途有為の人々
■在所村・美良布町の人が多かった。
■通学生が多い。(人数は所説あり)
■他は公務員や会社員も多かった。
なぜ事故は起きたのか?
当時の道路状況が悪かった
■事故現場が一番高い峠から
下り坂にかかったSカーブの箇所だった。
■当時、整備が進んでいたものの
事故現場の道路は旧道であり
現在に比べると断然に状況が悪かった。
■あと事故発生したのは
11月の午後6時前。暗い時間。
当時は外灯も少なっただろうし
見渡しも悪かったはず。
定員オーバーだった
■なんと定員33名の所に61名!
(内車掌1名・運転手1名)
約倍の人数。異常です・・・
■土佐山田町の秋の神祭で
いつもより乗客が多かった。
運転手が飲酒をしていた
■運転手は全治1か月の重傷で生存。
真相解明の為、運転手に当時の話を聞く。
■運転手は事故当日の正午ごろ
湯呑1杯分の神祭のなごれ酒を飲んでいた。
■前の午後4時の便では無事に運行ができた為
その後の事故のあった便も運転した。
当時は飲酒運転への規則が
ゆるかったのかもしれませんが
今となっては信じられない事です。
前から来る自転車を避けた?
■11月11日の高知新聞では
前方に自転車が現れ、すれ違う際に
目測を誤ったという報告の記事も。
多くの原因が起こした悲しい事故
真ん中の弔魂碑には犠牲者の名前が入っている。↓

実際はもう少し情報があったのですが
自分で調べて分かった分だけ記載しています。
探すと多くの事故要因があったのですが
一つでもその事故要因がなくなっていたら
この悲しい事故は起きていなかったのかもしれません。
一つでも事故要因を減らす。
飲酒に限らずこの事が
事故を防ぐ一番の方法だと思います。
次回は少し話がそれますが
当時の道路状況がどうなっていたのかも
少しお話しようと思います。
それでは、今回も読んでいただき
ありがとうございました。

参考資料
■香北町史(1968年版)(2006年版)
■高知新聞
■高知県土木史
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